『あなたとの5分』

 

アズサは携帯電話の待ちうけ画面を見ていた。「送信成功しました」という通知が消え、少し大きめのデジタル文字で「22:42」と時刻表示された。仕事を終え、同じ最寄り駅に住む同僚と別れ、一人暮らしの部屋に着いてからすぐ、なによりも先にメールを送った。化粧を落とすこと(歳のせいとは言いたくないが、このところ肌の調子が気になっていた)や着替えや、あるいはうがい手洗いよりも先に、離れて暮らす恋人へ。アズサの日課でもあった。

ここから5分。先に仕事を終えているだろう恋人の返信を待つ。この間、アズサは何もしない。いや、できないのだ。彼女はやはり、化粧を落とさず、着替えず、うがいや手洗いをせず、返信を待つ。返信を待つ間に帰宅後の身支度を整えればいいのはわかっているのだが、どうしてもできなかった。メールを何度もチェックする。いつからかそのために玄関に置いた椅子に腰掛けて、携帯電話を握り締め、睨みつけ、画面が暗くなるとボタンを操作する。返信がくるか、こなければ5分が経過するまで、そうしてアズサは一日で一番長い時間を過ごした。

 

カケルは腕時計を見た。駅まで10分のところを、今日は半分の時間で向かわねばならなかった。常に時間に対しては余裕を持たしているカケルにしては珍しいことだった。ハッと気付くともう家を出なければいけない時間で、最低限の身支度(といっても、一般的な同年代の若者から見ても十分にオシャレといえる)だけを整えて家を飛び出した。今日はオーディション。コンビを組んでいるタケルと、幸いにしてつかんだチャンスだった。

駅までの5分。カケルは相方のタケルのことを考えていた。この大切な日に寝坊してしまった自分とは違い、タケルは余裕を持ってというレベルではないくらい早く起きて準備を整えているだろう。……。この世界に自分を誘ったのはタケルだった。情熱に負けたのだ。もっと安定した仕事をして、堅実な生活を礎に地に足をつけて生きていくつもりだった。しかし、タケルからコンビを組もうと誘われて体中の血が煮えたぎるのに逆らえなかった。カケルはどうしても、自分の可能性、つまり夢にかけるという欲望に抗えなかったのだ。タケルがカケルの夢への道を描いたのだ。その代わりというわけではないが、駅までの5分、急ぐ足を従えながらタケルの夢に応えたいという心にカケルは満たされていった。

 

イクエはオーブンで時間を確認し、スタートボタンを押した。結婚して3年が経ち、水曜日はドリアの日と決まっていた。夫が帰ってきて着替えてくるまでの間、彼女はオーブンをセットし、その間にサラダを盛り付け、ビールのグラス(昨日の夜からしっかりと冷やしてある)を出し、スープを温めなおす。夫の帰宅が何時になろうともそれは変わらない。

例え夫が帰ってこなくてもやめることが出来ない時間。イクエは夫以外の男性を知らなかった。知らなかったという過去形。つまり、今は夫以外の男を知っている、ということだ。彼は大学生だった。お笑い芸人を目指しているオシャレで外見のいい男だった。イクエが大学に行っていればもしかしたら別の未来があったかもしれないという可能性を付加価値として示してきた、傍若無人にして夢を与えてくれた若い男だった。同じ傲慢でもただ自分の思い通りにしようとする夫とは違い、彼女自身の可能性まで思わせてくれた人。それでもイクエは仕事帰りの夫に対して渾身のドリアを調理していた。毎週水曜日、それだけは絶対に譲れなかった。大学生はあくまでも可能性を可能性として与えてくれる存在でしかなく、彼女の現実は夫であった。オーブンでドリアが焼きあがるまでの5分、イクエにとっては夫を愛しているということを確認する幸せの時間でもあった。

 

イサヒトはため息をついて、泣いている彼女の後ろの置時計(半年前にディズニーランドでおそろいで買ったものだ)に目をそらした。ネズミのキャラクターの鼻の頭に分針が懸かるところだった。あくまでも冷静でなくてはいけない。別れ話を切り出したのはイサヒトだった。分針を追い越した秒針を心の中で機械的に読み進めた。49、50、51、52……。

ため息は演技である。それが効果的に、彼女に諦めを与える材料のひとつになるのではないかとイサヒトは考えていた。決して計算しているわけではなく、ほとんど自然に、つまり本能的に、自分がする仕草や口調や表情が相手にどのような印象を与えるかを感じ取って効果的に使い分けていた。うつむいて泣いていた彼女は今のため息に気付いて、距離が離れてしまっていたことをさらに深く感じるだろう。あるいは彼女の性格からすればもうこれ以上感情をぶつけることもできず、ただただ堪えきれない涙を流すことしかできないかもしれない。イサヒトが切り出してから5分が経とうとしていた。おそらくその次の5分が、2人の最後の時間になるだろうとイサヒトは感じていた。

 

トモコは男との5分の時間をこう形容する。「チーズを丁寧にカッティングしたような時間」と。新鮮で芳醇なメイゴーダ(近所の輸入食料品店で少量しか買わない、彼女のこだわりでもある)は、くどくないほどよいクセがあるものが好きな彼女に丁度いいのだ。例え5分でも、彼女にとっては幸せな時間だった。全身全霊をかけて、一週間に一度の限られた時間を過ごすのだ。

他の恋人たちがどのように付き合っているのか、それに興味はない。自分だって月並みの恋愛をしたことがあったのだ。メールをして電話をして、ワガママがかわいいとばかりに逢いたいと甘える。女の部分を前面に押し出したような恋はできないということはわかってきたけれど、少しはそれに近い術も身につけてきたと思う。しかし、それは彼の前では必要ない。少し塩気のあるゴーダチーズに程よく合うくらいに少し渋く、しかし重過ぎないくらい重い赤ワインでいればいい……。トモコはクセのあるその男にはまさに自分こそがふさわしく、ゆえに週に一度の5分の逢瀬がより尊いものに思えてならなかった。短い時間というのが彼女には純度の高さを連想させる。純度の高いプラトニックな関係は、胸を張って「愛」と呼ぶにふさわしい気がした。あなたとの5分が私の全てなのだ。そう考えていた。