習作002


 初めて東京でバッティングセンターを見たとき、僕は、可哀想だなと思った。猫の額みたいなぎりぎり一杯の土地に、無理して精一杯に背伸びをした印象を、修学旅行で初めて都会にやってきた当時小学四年生の僕は受けたのだ。
 僕の中ではバッティングセンターといえば、周りに何一つない原っぱのど真ん中に堂々とそびえ立ち、聴覚と視覚で僕らを圧倒する城だ。それはなんとなく孤独な勇者を思い起こさせる。少なくとも僕の地元であるこの茨城の片隅ではそういうイメージだ。
 都会と田舎のアミューズメントで、客観的にどちらが残念かなんて言うまでもないけど、とにかく僕にはそうイメージで、僕がこうやって地元に残っているのはそういう理由もあるんじゃないかなと、そう時々考える。

   ◆◆◆

「だっしゃぁぁぁ!」
 そんな田舎のそのまた片隅にあるバッティングセンターに、濁声とボールが飛んで落ちる音だけが響く。短髪金髪くたびれたジャージ、ゴテゴテの鎖みたいなネックレスに、とどめは耳と鼻と唇とに山ほどついているピアス。ガンマの見た目は一言で言えば、田舎のヤンキー。その実のところは、やっぱり田舎出身のヤンキーだ。久しぶりに里帰りしたという事で、気合いを入れているのかもしれない。全身が、嫌になるくらい元気の良い日差しによく映える色だ。
 今ので、残りは9球だ。



「でも、お前もさ」
 ガンマはジャージの袖を無理矢理まくってヘルメットを後ろに放った。後ろの方から店主のお婆さんが注意の声を上げた。ガンマはそれに何か汚い言葉で言い返すと、ネット裏で見守る僕に声をかける。
「お前もさ、頭良いのに大学行かないなんてな」
「だから、僕は別に頭よくないってば.別に都会に出たって落ちこぼれるだけだったよ」
「でも俺らん中で一番頭良かったじゃん?」
「僕みたいな人間なんて、掃いて捨てるほどいるんだよ」
 高校時代、確かに校内に張り出されるテスト結果において、僕の名前は常に一番上にあった。もちろん入学当初はそれを誇らしく思ったし、思い上がり甚だしく、ちょっと人には言えない様な恥ずかしい妄想もした。あれだ、ノーベル賞受賞とか、そういうのね。それがただの空想だとだんだんと気づいた理由は、自分の頭の悪さを知ったからではなく、周りの頭の悪さを知ったからだ。
 数回受けた全国模試の結果を知るのは僕と家族と教師だけ。それを知っている彼らは、地元に残って公務員になるという僕の発言に対して首を横に振ることはなかった。僕の事を本当に秀才だと思っていた高校の友人達との温度差がとても滑稽だったのを覚えている。
 特にこのガンマという男は、僕が本当に天才で、将来は大統領でノーベル賞を取るのだと信じていた。自分の持っている知識とは、既に自分以外の人間全員が得ている物でしかなく、だからこそみんなから秀才と呼ばれる僕のことは世界の全てを知識に持つ人間である。彼はそういうよく分からない自分の理論に自信を持っている。冗談でも何でもなく、ガンマとはそういう男なのだ。

●●

「ふーん、そんなもんか」
 よいしょ、と気合いの入らないかけ声でバットを振るが――空振り。聞こえる舌打ち。
「そんで俺みたいなどうしようもない奴が上に行って働いてんだから、わかんねぇもんだよな」
「そんな、立派じゃないか。お母さんがいつも自慢してるよ。あの馬鹿も漸く孝行の意味を知ったって」
 あの糞婆ァ、とガンマは頭をがりがりとかいた。
「朝から晩まで働いて、休日なんて糞くらえで、そんで貰えんのは兎の糞みたいな給料だ。そっからさっ引いて金渡してんだぜ。これで文句抜かしたら燃やしてやるわ」
「ガンマは照れ屋だなぁ」
 感心する様にそう漏らすとガンマはぺっ、と唾を吐き捨てた。妙に低めに飛んできた次のボールを当たり前の様に空振りする。

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「俺のことはどうでも良いんだよ」
「僕のことだってどうでもいいさ」
 肩を竦めて答える。
「よくねぇよ。どうなんだ。とりあえず県長には、いや、とりあえずは町長くらいになれそうか?」
 これにはいったい何と返せばいいのか? 誓って言うが彼は冗談で言っているわけではない。僕だけは役所にスーツで出勤するだけで平の役所勤めから町長にランクアップ出来る仕組みになっているのだと、そしてその後は【県長】という不思議な役職に就くのだと大真面目に信じているのだ。僕は首筋に手を当てて唸る。お婆さんが妙に甲高い笑い声を上げた。
「それはちょっと、難しいかな」
「ん、そっか。流石にまだ早すぎるか」
 そういう問題でもないんだけどな、という僕の声を射出音がかき消す。バットが掠って三塁線へ切れる。ガンマは鼻を鳴らして足下に転がっていた2つのボールを蹴り飛ばした。

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「でも待ってるぜ」
 片手で大きくバットを振り回す。歪な金属バットが風を切り、不安定な、けれどどこか心地よい音を奏でる。
「おまえがな、困ったとき、頭だけじゃ解決できない様なすげー困ったことが起きたとき、俺が助けに行ってやるよ。なんとかしてやるよ」
 こういう事を平気な顔で言うことが出来るから、そしてそれが決して冗談ではないから、ガンマは僕にとって本当に得難い友人なんだと思う。欠点ばかりのこの男に僕は優越感と劣等感が入り交じった羨望の念を禁じ得ないのだ。
「でな、甘い汁を一杯吸わせてくれ。俺は一生遊んで暮らすんだ」
「できればね。その時はよろしく」
「おう」
 あまり気持ちが良いとは言えない音を立てながらピッチングマシンが揺れる。雨露をしのぐトタン屋根以外は野ざらしの機械だ。なんだか可哀想になってくる。ガンマはそれを視線だけで打ち倒すかの様に睨みつけ、金属バットがきしむ程に握り込む。
「あ、僕、結婚するかも」

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 バックネットに突き刺さる染みだらけの元白球。編み目が緩くなっていて中身が少しだけ見える。
「はぁあ?」
「うん、結婚するんだ」
 ガンマはボールそっちのけで後ろにいる僕を見る。口を何度か開閉して何か言葉にならない声を上げた後、ぐっと息を飲み込む。
「誰っつうか、いつっつうかなんつうか」
 手元の携帯を意味もなく弄くり回しながら答える。
「なんというか、なんか半分お見合いみたいな感じで、その」
「東京から来てるね、安藤さんの。あの山猿みたいな顔した安藤さん。その娘さんだよ。これが何故か器量よしでね、不思議なもんだねまったく。別の種なんじゃないかね」
 鳶みたいな笑い声を上げるお婆さんに僕は顔をしかめる。直接ではないが上司の、そして岳父になる方をそんな風に言われるのは腹が立つ。
「美人なのか?」
 ところがガンマはどうにも気になる様で、ネットに掴みがかりながら先を促す。
 ボールが跳ねる音。

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「そりゃもう。あんな美人さんはそういないよ。私が保証する」
 しわくちゃになった自分の額を拳骨でこつん、とこづく。僕は現金な物で、そこまで自分の妻が褒められると悪い気はせず、文句を言おうと開いた口を閉じてしまう。
「そっかそっか」
 ガンマの方を見やると、彼は満足げに自分の肩を叩きながらうんうんと頷く。
「そっか、流石、流石お前だよ」
 顔を一杯に綻ばせてバットを再び振り回す。またあの音が鳴る。
「んじゃあ、祝砲を一発だな」
 足を大きく開き、重心を降ろす。バットを肩ごと後ろに思いっきり下げる。そして、射殺す様なあの視線。気合いは、気合いだけは十分だ。でも素人目に見たってそんな体勢じゃ撃てっこないことは分かる。
「ガンマぁ」
「いいから」
 くいっと顎を引く。
「良いから見てろって」
 再び軋むマシン。引き絞って引き絞って、放つ。
「であっ!」
 濁声と共にバットが大きく振られる。
 僕は息をのむ。
 ボールは近づく。
 お婆さんは欠伸をする。
 そして、インパクトと快音。

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 ガンマがよく分からない雄叫びをあげながらガッツポーズを決める。
「みたかぁ!今の痛烈なピッチャー返し!」
「今のはピッチャーゴロっていうんだよ」
 マシン前のネットへ突き刺さった玉は、ころころと転がり、下部にある吸球口へ吸い込まれる。
 お婆さんは鼻で笑って煙草に火をつけた。随分と濃い煙が上がり、ヤニで真っ黄色の天井へと伸びる。
「あぁ? 老眼だろ糞婆ァ」
 ガンマはバッターボックスを飛び出て詰め寄る。じゃららととても重そうな音がした。
「そっから何が分かるってんだ、おい?」
「ぜーんぶ、全部分かるさ」
 煙を一段低い位置にいるガンマへ吹き付ける。ガンマは足下のビールケースを蹴りつけながら罵声を浴びせるが、お婆さんは全く意にも介さない。
「ガンマ」
 一声かけると、はいはい、と肩を怒らせて自分も煙草に火をつける。シルバーのジッポを左手で転がしながら顎でバッターボックスを指す。
「おい、打てよ」
「は?」
「打てって」
 学生時代は数え切れないくらいに通ったが、一度もその本丸へ立ち入ったことはない。理由はない。ないから立ったことがないのだ。スパンッと軽快な音をたてて姿の見えないキャッチャミットにボールが突き刺さる。

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「でも」
「いいから、もったいねぇ」
 えーっと、と逡巡している僕を向こう側へ蹴り入れる。
 とりあえずヘルメットを拾って、頭に被る。かび臭い匂いがした。そして蹴られた腰をさすりながら外を見る。
「わぁ」
 こちらから見るとこんなにも世界は大きいのか。光が眩しい。風が強い。瞼が不機嫌になる。圧倒された。
 脇にあるボックスから、出来るだけ状態の良いバットを取り出す。赤みがかって、ちょっと子供臭いかもしれない。バットを握るなんていつ以来だろう? いや、もしかしたら始めてかもしれない。握るとボロ屑の様な持ち手が思ったより手に馴染むので驚く。
「こ、こうかな」
 恐る恐る素振りの真似事をする。と、目の前のマシンが泣き声を上げ始める。
「ほら、振れよ!」
「えっ、え?」
 前から射出音。

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 後ろから着弾音。
「お、ふぁっ」
 変な声が出る。
「これっ意外と速いんだね!」
「だろ? 甲子園は遠いわ、まじで」
「まじで、いろんな意味で遠いね」
 大きく息をって、肺の空気を全て出すつもりで吐き出す。繰り返す。
「よし」
「何がよしだよ」
 ガンマが引きつる様に笑う。
「足も腕もぷるぷるしてんじゃねぇか」
 うんまぁ、と一つ頷く。マシンが最後のきしみを上げる。それを見た瞬間、さっきの深呼吸の意味がなくなる。心臓がなる。変な汗が出る。瞬きが億劫になる。
 まぁ、いいか。これでへっぴり腰の空振り。ガンマにどつかれながら苦笑い。お婆さんの嫌みったらしい笑い声。そんな流れを頭に浮かべつつ、バットを振りかぶる。マシンが嗤う。
 あぁ。
「振れ」
 あぁ、違う。
「俺が振れるんだから、お前でも振れるさ」
 違うんだ、この玉を見送ったら、もう。
 頭と頬がかっと熱くなる。考える暇なんてない。白い物が動いた気がして、全力で、振り抜く。

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 真芯に当たると、逆に手応えがないものらしい。
「うっそぉ」
 そう漏らしたのは僕だったのかガンマだったのか。
 手が、手首が痺れる。足もがくがく震える。肩で息をしながら思う。この一発で明後日は筋肉痛だな。

「おぉい。今のみたかよ糞婆!」